投稿記事(100年前の台湾)          2023・8・    中軽米重男

 

 台湾植民政策・・100年前の台湾

       (岩手からの便り)

 

 

「まえがき」

今回は、約100年程前に臺灣の総督府に勤めていた”とある役人”が表した「台湾植民政策」という著書(ある種の報告書)の一部の紹介を試みるものです。

当然のこととして”何故そのようなモノを、然も、今ここで?”について説明する必要がありましょうが、事の次第は次の通りです。些か冗長に過ぎ恐縮ながら、一読願えればと思います。

 

「事の次第」

8月に入り連日の猛暑と台風の襲来などがあり、老体はすっかり屋内に閉じ籠りがちな日々を過ごすことになりました。その結果、これまで体力維持を主たる狙いとして続けてきた一ヵ月間合計100kmを目標にした”歩き”がすっかり疎かになり、自然と部屋に閉じこもって、読書三昧の日々が続きました。

そうした中で最近書架の片隅で目にしたのが、23年程前に赴任地の臺灣で広辞苑を片手に(注、勿論当時はGoogle等はありませんから只管辞書の助けを借りて)貪るように読み耽った表記の書籍でした。

私は2000年春に臺灣の台北市にある日台間の外交関係維持機能を有する交流協会に赴任しましたが、当時、臺灣に関わる基礎知識が皆無に近い状態でしたから些か慌てて、急速充電的にでも必要な知識を頭に充填出来ないものかと思案し、台北の街中を彷徨い歩いた結果、見つけ出したのが、19985月に台北市の某所で発刊された表記「台湾植民政策」の復刻版でした。

実を言うとこうした我が国の統治時代の諸政策等に関わる歴史的資料や書籍類は、歴史研究等の為に現在の臺灣に於いて結構な種類が復刻或いは中国語に翻訳されて発刊されており、私もその中の一つを入手したのです。

今回の拙稿はそうした諸資料の中から、今それを読み直してみて各位にも是非紹介して見たいと思い付いた臺灣原住民に関わる部分を抜き出したものです。云う迄もなくこの資料の原文は100年前の明治末期に作成されたものですから、その表現、筆法は、現代文と比較すれば古色蒼然とした漢文調で、然も、今で謂う”差別語あるいは差別表現”が多く含まれていますが、今回は、それらの諸点を無視し原文のままとしました。他方、参考までに適宜にルビ或いは注釈を付記しました。

 

「本書の緒言」

本書執筆の動機或いは経緯などが、その緒言に次のように記されています。

* 本書述作の動機は全く十年勤務の報恩として臺灣統治の為に、(けん)(あい)(僅かばかり)の貢献を(いた)さんと欲する微衷(びちゅう)(自分の本心)に出づ。治績(ちせき)(せい)()の中外に(さく)(さく)(喧々ごうごう)たる臺灣統治の本質と精神とを開発する所あらんことは、年来著者の(ひそ)かに自ら思念する所なりしも、官に在りては職務繁劇(はんげき)にして其暇を得るに由なきのみならず、(いたずら)に治績を粉飾して現状を謳歌する者と誤認せらるべきを(はばか)りて()みたりき。四十三年(1911年)十二月休職の恩命を拝し、静閑の境遇に処するを得たり。是に於いて年来の()()を果さんと欲し、去年(1910年)四月稿を起こし十二月に至りてなる。

顧みて全篇を通読するに、(はん)(かん)(意味や使い方を判り易くする)詳略其宜を得ず、()(ざつ)(ごたごたして)混淆其(さい)する所を知らず、深く自ら中心忸怩(じくじ)たらざるを得ざるなり。・・・以下、略・・・

 

「蕃族の状態」

本書執筆の目的の中に、日本の臺灣統治政策における理蕃政策、即ち、蕃族(原住民)の平定、統治が如何に進められ、それがどのような成果を納めたかを記録することがにありましたが、本拙稿では、その中の一部”蕃族の状態”のみを以下に抜き出して見ました。

 

* 支那人は臺灣の土蕃(原住民族)を類別して生蕃熟蕃と為したりき。是は支那内地の南隅に居住せる(ミャオ)(ぞく)に対し、その()()(従い付く)の有無に依り塾苗、生苗の類別を為せるに倣えしものにして、其の深く内山に居り、未だ教化に帰せざる者を生蕃と為し、其の平地に雑居し、法に遵い役に復する者は其の種族の如何を問わず、民籍に編入して法律の前には均しく本島人として保護撫育を加うる処なるが故に、生蕃熟蕃の類別は既に種族の区別に非ざるのみならず、政治上の意味においても今日何等の実用を為ざるものとす。

また、高山蕃及び平埔蕃の類別在り。高山蕃とは高山に占住せる蕃族を謂い、平埔蕃とは平地に占住せる蕃族を謂う。平埔蕃は元平埔に占住せる土蕃の一種族には相違なきも、此の種族は(オランダ)領時代より(ごう)(行為、行動)已に優等人種なる支那民族と接触して、圧迫を蒙り、*化育(*現代語にはない、適切な意味の把握が難しい用語、以下同じ)を受け、四散して集団を為さざるのみならず、漸次漢人化し、今や支那民族と雑居して普通行政の治下に在るものなるが故に、蕃族の一種族として区別するの必要を見ず。故にここに所謂生番とは即ち古の所謂高山蕃にして、尚未だ遵法服役せざる蕃族を云う。換言すれば生蕃とは蕃地即ち普通行政区域の外に棲息し、漸く化塾(*)せんとし、又は将に向かわんとし、若しくは未だ全く招撫(*)に就かざるの未開の状態に在る蕃族を称するなり。

臺灣の生蕃はマレー人種に属し、元と同一系統より出でしものなるべしと(いえども)、分化の結果、其の骨格、言語、習俗等により自ら之を九種族に大別することを得。即ち、次の九種なり。尚、此の称呼(しょうこ)(呼び名)は彼等の自称に基づけるものなり。

 

「アタイヤル」、(泰雅、Atayal

「サイセット」、(賽夏、Saisayat

「ヴォヌム」、(布農、Bunun

「ツォオ」、(雛、Tsou

「ツァリセン」、(魯凱、Rukai

「パイワン」、(排湾、Paiwan

「ピユマ」、(卑南、Puyuma

「アミス」、(阿美、Amis

「ヤァミ」、(雅美、Yami

 

一、アタイァル族

埔里社を中心点として東西に一線を画し、其の以北の幽深嶮峻なる山地一帯に棲息せる臺灣生蕃中最剽悍凶猛の蕃族なり。彼等の分布地域は500万平方里に及び、蕃地の約5/12を占め、その人口もまた「アミス」」族に次いで最も多し。(「アミス」は33000、「アタイァル」は28,000

彼等の特徴の一は顔面に(いれ)(すみ)を施すの習慣あること是なり、故に一にこれを(かつ)(悪賢い)族と称す。埔里社以南の他の蕃地に在りては此の習慣を有せず、此の習慣は独り「アタイァル」族に限れり。又其の特徴の一つは馘首(かくしゅ)(首狩り)を以て無上の名誉と為せる事是なり。馘首を名誉と為すは素と各蕃族に共通の風習にして、平埔蕃の如きすら往昔は此の風習を有したるものなりしも、他の蕃族は漸次化塾( )の域に就き、今日に於いては「ヴォヌム」族及び「ツァリセン」族の一部が尚未だ此の蛮性を脱せずして時に凶害を逞しうするの外、概して穏和にして、農耕、漁猟若しくは牧畜など平和的生業に従事するに拘わらず、独り「アタイァル」族に至りては今日尚依然として馘首の風習を脱せず。この点より見るも、「アタイァル」族は蕃族中化塾の程度の最劣等に位するものと謂うべし。彼等に馘首の風習あるは種々の希望と迷信とに基し、殆どのその社会生活の要件を為せばなり。蕃人事情に其の必要の理由をに延べて曰く、

(一)年を祭るの祭祖の儀式の準備として必要なり

(二)男子が成丁の列に伍すべき準備として必要なり、若しも馘首を為し得ざれば、特別の事情あるを除くの外、成丁の列に入るを得ず

(三)良配を得るの条件として必要なり、乃ち二男一婦を望むときの如き馘首者之を娶るを得

(四)勇挙を得るの要件として必要なり、従って、酋長たるの資格の必要要件の一つとして認めらる

(五)疫病の(じょう)(じょ)を為すに必要なり、乃ち天然痘の流行の如き馘首をなすによりて除病し得べしとの迷信を抱きつつあり

(六)理非の争論に勝利を得るの要件として必要なり

(七)嫌疑を解除し罰を免かるるに必要なり

彼等は是等の犠牲を支那民族その他の異族に求む、日本人と(いえど)も素より之を免れることを得ず。而してその馘首の方法は或いは一社の壮丁を挙げて隊伍を編して遠征に上ることあり、或いは単身邁進を企つることたり、其の馘首を完うして帰社するや、挙社歓呼して之を迎え、首を囲みて飲酒歌舞長夜の宴を張り、宴了りて之を人頭架の上に列す、人頭架は屋外に木又は竹を支柱として、高さ凡そ三四尺許に架を構え、架上に新旧の頭顧(*)を並置保存するものにして、一社の共有に係り、酋長之を保管するものとす。「アタイァル」族は其分布地域甚広く、且実情尚未だ査明し得ざるものありと雖も、其顕著なる蕃社を挙げれば、・・・(以下、省略)・・・

ニ、サイセット族

新竹庁の平地に沿う山麓に占住する最少の蕃族なり、其の南庄付近に在るにより一に之を南庄蕃と謂う。

三、ヴォヌム族

埔里社の南方、干逹萬山並びに濁水渓以南に占住する蕃族なり

四、ツォオ族

嘉義庁の東部に於ける阿里山を中心として其四周に住居する蕃族なり、此の蕃族はヴォヌム、ツァリセンに比すれば頗る化塾の度進めり

五、ツァリセン族

鳳山地方の山地に占住する蕃族なり、支那人は之を傀儡(くぐつ)蕃又は()(れい)蕃と称せり

六、パイワン族

臺灣の南部恆春地方及び臺東庁の南端に占住する蕃族なり、支那人は之を琅喬蕃と称せり

七、プユマ族

臺東の卑南平野並びに其近傍に占住する蕃族なり、其風俗習慣等は頗るツァリセン、パイワンの二族に近似す、支那人は之を卑南蕃と称す

八、アミス族

南は卑南平野より北は奇菜平野に至る臺東、花蓮港の一帯に占住する蕃族なり、支那人は之を阿眉蕃と称す

九、ヤアミ族

紅頭嶼(島)に占住する蕃族なり

これ等の九族の蕃族は其の化塾の程度深化の段階に於いて深浅厚薄あるは免るべからず、・・・以下、省略・・・

「むすびに」

本拙稿冒頭に記した”とある役人”とは、次のような人物です。

(もち)()六三郎(ろくさぶろう)

1867年(慶応3年)9月、福島県生まれ~1923年(大正12年)8月死去

学歴:東京帝国大学法科卒

主な職歴:石川県参事官、文部省書記官、台南県(臺灣)書記官、台湾総督府  通信局長、朝鮮総督府土木局長、逓信省逓信局長を歴任

主な著作:経済教科書(1902年)、台湾植民政策(1912年)、日本植民地経済論(1926年)、他

 

                              (終わり)