投稿原稿(秘境への潜行)        2023・8・1   中軽米重男

 

 秘境西域八年の潜行   (岩手からの便り)

 

 

「はじめに」

  果たしてその内容が”岩手からの便り”として相応しいものか否か少なからず迷いもありましたが、本の著者が岩手の県都盛岡市で半生を過ごし、この地で逝った人物であることからすれば、それも許されるかもと何となく納得して以下拙稿を書き進めることとしました。

  なお、記述の順序が相前後したりして読み難い点も多々ありますが、ご一読下さればと思います。

1.本との出会い

今年の正月早々に、予てから気になっていた全三巻(上中下)からなる表記の単行本を探しに通い慣れた古本屋(注1)に足を運んだところ上巻と中巻の二冊のみを発見しました。店の主人によると下巻は目にしたことがない、恐らく他の店にもはないものと思われるとのこと。そこで取り敢えず二冊を購入し、下巻については県立図書館で探してみることにしました。

するとその下巻は県立図書館でも貴重な保存書籍として一般閲覧場所ではなく書庫に保管されており館外への貸出しは出来ない本でした。そうなると俄然”変な意欲”が湧いてきました。どうしてもその下巻を入手したくなったのです。そしてネット検索を試みたところ、その下巻は希少書籍として結構な高値で古書市場に出回っていることが判明しました。

  ところが、その時が丁度真冬の厳寒期で、然も相当な積雪に見舞われ、連日の雪掻きに老体を酷使することとなり、書籍の入手作戦(!)は一先ず中断することになりました。そして再びその入手作戦を再開したのが5月中旬の初夏に至ってからでした。いずれにせよ、5月下旬にはAmazonのネット販売で下巻を無事ゲット(注2)できました。そこで早速、合計約2,000ページに及ぶ大著を読み始めましたが、それを漸く読了したのは7月下旬のことでした。

(注1):この古本屋がその後(4月初旬)に店仕舞いしたことについては、4月 

    14日付投稿でご案内したとおりです。

(注2):1月中旬に入手した上巻及び中巻は合わせて500円でしたが、ネット

    販売の下巻は一冊で何と約4,000円でした。然もその値段は今も刻々と

    値上りが続いている模様です。

2.著者「西川(にしかわ)一三(かずみ)

日中戦争・太平洋戦争中の外務省情報部員

1918年(大正7年)917日:山口県阿武郡(現山口市)生まれ

 

1936年(昭和11年):福岡県修猷館中学を卒業し、南満州鉄道(満鉄)に入社

1941年(昭和16年):中国の西北部(注3)への憧れから満鉄を退社し、興亜 

    義塾(注4)に入塾

(注3)中国の西北内陸部で、地理上は黄土高原西部、河西回廊、青蔵高原北部

    、内モンゴル高原西部、新疆高原等を含む地域

(注41933年(昭和8年)、東京において対モンゴル友好工作機関として設立

    された善隣協会により、1939年(昭和14年)、内モンゴルの厚和市(旧 

    綏遠、現フフホト市)に開設された日本人の特務工作員養成機関

1942年(昭和17年)9月:同塾を卒業し駐蒙古日本大使館調査部員となる

1943年(昭和18年):時の東條首相より「西北支那に侵入し、支那辺境の友と

    なり、永住せよ」との特命を受け、10月末、チベット(西蔵)に巡礼 

    に行くモンゴル人ラマ僧「ロブサン・サンボー」(注5)と身を偽って 

    内蒙古の張家口を発ち、チベット潜入を企図

(注5)モンゴル語で正しい人との意

・・・ 尚、爾後の概略経路を次の通りです。

内蒙古(張家口、綏遠、包頭)~寧夏(定遠)~甘粛~青海(西寧、青海湖)1945年(昭和20年)8月:内蒙古を発ってから約110ヶ月、チベットの首 

    都ラサへの潜入に成功

・・・ 更にその後も以下の地域、国への潜行を続けます。

インド(カルカッタ)~チベット~西康(昌都)~チベット~東パキスタン~インド(カルカッタ、ブッタガヤ、鹿野宛、デリー、その他)~ネパール(カトマンズー)~インド(カルカッタ)

1949年(昭和24年):102日、インド当局に逮捕される

1950年(昭和25年):512日、インド・カルカッタを出港、

    :613日、神戸着帰国

    :8月、GHQ出頭、爾後約1年間に亘り連日GHQの情報収集(事情聴

     取)を受ける(注6

(注6)この事情聴取に対し米軍から日当1,000円が支給されました。因みに当

    時の日本人の平均給与は月額5,000円位でした。

1951年(昭和26年)9月~爾後約3年間:「西域八年間の潜行」に関わる長編 

    記録(原稿用紙約3,200枚)を執筆

1958年(昭和33年):岩手県水沢市で化粧品の卸商を開業

1967年(昭和42年):盛岡市に転居し事業を継続

1967年(昭和42年)11月~19682月:書籍「秘境西域八年間の潜行」上・

    中・下全三巻が扶養書房から発刊

2008年(平成20年)27日:盛岡市で死去(享年89歳)

3.各巻の概要

  以下、各巻の全体像及びその構成は次の通りです。

(1)上巻

*全体像:

日中戦争時下、軍の密命を帯びて内蒙古を出発した外務省の一調査官西川 

一三は蒙古人巡礼ラマ僧に身を変じて西域地区に侵入し、寧夏、青海の未

踏の秘境をさ迷い、苛酷な運命に耐えながら一路ラマ教の聖地ラサ目指す。

*構成:

  内蒙古篇(潜行出発準備、国境(中国軍の支配地域)突破、その他)

  寧夏篇(ゴビ砂漠に潜入、定遠営の街、テングリ砂漠を超えて、その他) 

  甘粛・青海篇(西寧の街、タール寺、その他)

  青海・蒙古篇(青海湖、パンチェンラマの寺、青海蒙古族、タングート族)、

2)中巻

*全体像:

青海湖から更に西方に向かい無人地帯を経て遂にラサに潜入した西川は、

祖国日本敗戦のうわさを耳にする中ヒマラヤ越えのアルバイトに自活の道

を見出す。内陸アジアの厳しい自然と対峙しながら生きる純朴な人々との

接触を通し、人類平和の希求と人間性探求へと開眼していく。

*構成:

  無人郷篇(遂にラサに到着、その他)

  チベット前篇(省略)

  ヒマラヤ篇(省略)

(3)下巻

*全体像:

青春の全てを埋め尽くした戦争は終わった。ヒマラヤ越えで痛めた傷も癒 

えて、住み慣れたインド・アッサムの街カーレンボンをあとにして再びヒ

マラヤを超えてラサに向け旅立つ。本格的な仏教修行のためにラサのレボ

ン寺に籍を置いた蒙古人ラマ僧西川は猛烈な語学の学習(注7)の傍ら、ラ

マ教における学問などの組織、ラマの生態を余すところなく伝え、蒙古人

ラマとしての信頼を獲得しながら、漸く平穏な時を持つ。

しかし日本人同志(注8)と秘境西康省の踏査のため再び巡礼の旅へと出掛

ける。その調査を終えてラサに帰還した西川は。今度は仏跡インド・ネパ

ールへの巡礼に向かい、そしてインドの地でインド当局に身柄を拘束され

ることとなる。

(注7)蒙古語は本来完璧であったが、それに加え仏典を理解できるレベルでの 

   チベット語、インド語(ヒンズー語)更には英語の習得に努めた。

(注8木村(きむら)()佐生(ひさお)(19221989)、興亜義塾で西川の一年先輩、単独で西域・

   チベット・インドに潜行、1950年、インドで逮捕され西川とともに帰国、

   帰国後「チベット潜行十年」を執筆、亜細亜大学アジア研究所教授

*構成:

  チベット後篇(省略)

  西康篇(省略)

  インド・ネパール篇(ブッタガヤ、鹿野苑、クシュナガル、その他)

4.その卓越した記憶力と緻密で正確な記録

何はともあれ、西川が原稿用紙3,000枚以上にも及ぶ著作を自らの頭の中に秘めていた記憶のみを元にそこから全てを紡ぎ出していることに驚愕させられます。更に、その緻密で正確な文章、筆致にも心打たれます。

以下、西川が西蒙古を発って略一年十ヶ月を費やし、愈々当面の目的地ラサを目前にした時の記録を見てみると次の通りです。

「まったく夢だ。生きているということが!、内蒙を出発してから既に三星霜。一歩一歩、歩き続けたこの足で、夢に描いてきたラサを眼前にしようとは。その寒気はどれほどだったろう。そしてその大きな冒険を成し遂げた痛快さは、ただ私の肉を躍らせていた。

こうして興奮の内に、無数の苦難と障害とに対する三ヶ月余の無人境との戦いを終って、ラサへの最後の夜は暮れて行った。

遠足前夜の子供のように、寝付かれなかった最後の一夜が明け、谷川を渡って山峡を出ると、広大なキチュー(チベット語で河の意)平原が開けてきて、西方遥か彼方の曠野の一角に、ラマ教徒のメッカ、神秘境の首都、ラサの街が姿を現したのは、淡青色の朝餉の煙が、春霞がたなびいているように街を覆っていたときだった。・・・以下、略・・・」

「むすびに」

1.総じて約2,000ページに及ぶ単行本三冊の内容をたった数ページに纏めて見ようとする試み等は当初から的外れな作業であることは重々承知しつつも、自分がそれをほぼ2ヶ月間を費やして読破したことの記録だけは何処かに残しておきたいとの思いから筆を執ってみたのが本拙稿ですが、矢張り、そこには当初から無理があったことも事実で、処々方々つかみどころのない内容になっていることに気付いています。でも、それも一つの記念碑的な代物になっていりかも?と、自らに言い聞かせたりもしています。

2.一方、本拙稿の結びとして、次の事は是非書残しておきたいと思います。

実は、西川は1950年(昭和25年)日本に帰国して、その足で先ず向かったのは外務省でした。彼にとってその行動は、任務を終えて帰還した一情報員としての至極当然の行為だった筈です。ところが、外務省は彼のそうした真摯な行為、行動を一顧だにせず、全く無視しました。

他方、西川の帰国を知った時の権力者GHQは早々に彼の身柄を拘束します。そして西川からその後約一年間に亘り、正しく全てを搾るり採るが如く徹底的な情報収集を行います。然も、その対価についても如上注6で記述した如く当時としては破格の額でした。そうした時の米軍による徹底ぶりを、所詮彼等は勝者であったのだという醒めた目で直視する等の正否はさて置き、そこからは彼等の情報というものに対する妥協を許さない峻厳極まりない姿勢を感じ取れます。それに反し、いかな弱り切った敗者であったとは言え、時の我が国の西川への対応ぶりは、全く正鵠を欠いたものであり、今にしても尚且つ、全くの無念の極みであったと感じます。

因みに、西川が米軍に提供した、例えば、彼が通りかかった青海湖の畔のとある小さな集落の名前とその位置、家々の佇まい等に関わる詳細な記録は、他の膨大な量の情報とともに今も米国の公文書館か何処かに静かに眠っているはずです。

 

 

                              (終わり)